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東京地方裁判所 平成9年(ワ)22801号 判決

本訴原告(反訴被告)

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

久保田紀昭

本訴被告(反訴原告)

乙川次郎

右訴訟代理人弁護士

澤田直宏

主文

一  本訴被告(反訴原告)は、本訴原告(反訴被告)に対し、一七〇万二六二二円及びこれに対する平成九年五月一六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  本訴原告(反訴被告)のその余の本訴請求を棄却する。

三  反訴原告(本訴被告)の反訴請求を棄却する。

四  訴訟費用は、本訴、反訴を通じてこれを四分し、その一を本訴原告(反訴被告)の負担とし、その余を本訴被告(反訴原告)の負担とする。

五  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

一  本訴

本訴被告(反訴原告。以下単に「被告」という。)は、本訴原告(反訴被告。以下単に「原告」という。)に対し、三〇〇万円及びこれに対する平成九年五月一六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  反訴

原告は、被告に対し、三〇〇万円及びこれに対する平成九年一一月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件の本訴事件は、原告が、被告の故意又は過失に基づき、雑居ビル内の階段から落とされ、前額部挫創、右手首骨折等の傷害を負ったとして、被告に対し、不法行為に基づき損害の賠償を求めた事案であり、反訴事件は、被告が、原告は被告に何らの不法行為がないのに、故意に又は過失に基づき不当訴訟である本訴事件を提起して被告に損害を与えたと主張して、不法行為に基づき損害賠償を請求する事案である。

二  争いがない事実など判断の基礎となる事実

1  原告は、平成九年五月一六日当時、東京都墨田区江東橋〈番地略〉××ビル地下一階所在のクラブA(以下「A」という)に勤務していた、女性同様の姿で男性客に対する接客の業務に当たるいわゆるニューハーフである(甲第六号証)。

2  原告は、平成九年五月一六日午前〇時二五分頃、Aでの勤務開始時間である午前〇時三〇分に遅れないように出勤するため、ジェイアール錦糸町駅南側の京葉道路に面する丸井前の横断歩道を急ぎ歩いて横断しようとしていたところ、原告を女性と思った被告からホテルに誘われた。被告は、女友達と会い、付近の飲食店でブランデーを瓶の四分の三ほど飲んで別れた直後であり、これまで原告とは全く面識がなかった。原告は、被告が相当酩酊したようすであり、勤務時間にも遅刻寸前であったことから、被告を無視し、さらに歩いて行ったところ、被告がAまで付いてきたので、原告は、一時間だけ接客することにして、被告を入店させた(甲第六号証、原告本人尋問の結果、被告本人尋問の結果(第二回))。

3  被告は、一時間が経過したことから退店を求められ、原告の同行により店を出た。このとき、被告は、原告の腕をつかみ、再度ホテルへと原告を誘った。Aでは、客の見送りをした後すぐに店に帰らなければならないこととされているが、被告がなかなか原告の腕を放してくれないことから、原告は、被告をどこか人のいない所へ連れていって射精させればすぐに帰ることができると考え、偶然見つけた人影のない雑居ビル(東京都墨田区江東橋〈番地略〉所在。以下「本件ビル」という。)内へと被告を誘った(甲第六号証、原告本人尋問の結果、弁論の全趣旨)。

4  原告は、本件ビル内で、被告と向かい合い抱き合った状態で、一〇分ないし一五分程度、手で被告の陰茎に刺激を与え続けた。

5  その後、原告は、本件ビル内の階段から転落し、前額部をコンクリート製の階段の角に強く打って失神したため、被告は救急車を呼び、原告を順天堂大学医学部附属順天堂病院に救急搬送させた。

6  原告は、全治三か月半以上を要する前額部挫創、右手首打撲等の傷害を負い、平成九年五月一六日から同年一二月一九日まで九回にわたり治療を受け、前額部には七センチメートルの挫創痕が残った(甲第一号証の一ないし四、第二号証の一ないし四、第六号証、第九号証の一、二)。

7  被告は、本件事故に関して、原告のため、平成九年五月一六日から同月二四日までの間に治療費として合計八万二四一〇円を支出し(このうち七割は保険負担により被告に返金された。)、交通費として同月一六日に五五〇〇円、同月一九日に三六一〇円を、さらに、生活補助費として同月一六日に一万円、同月一九日に三万円を支払った(被告本人尋問の結果(第一回))。

三  争点

1  本件事故の発生について被告に故意又は過失があるか。

(原告の主張)

(一) 被告は、一緒にいた原告に対し有形力を行使しないなど原告の安全に配慮すべき注意義務があるのに、原告に対し、故意又は過失に基づき、原告を腕で振り払うか押すかの有形力を行使した。

すなわち、原告は、やむを得ず被告を本件ビル内に連れて行き、階段を数段上って右直角方向に曲がり、さらに数段登りきった場所において、被告と抱き合ったまま、被告の陰茎に刺激を与えていた。

被告は、相当酔っていたことから、一〇分ないし一五分程度もペニスに刺激を受けてもいっこうに射精せず、原告がAを出てからかなりの時間が経ってしまったことから、原告は被告を射精させて満足させた上で解放してもらうことを断念し、被告の陰茎から手を離したところ、被告は、故意又は過失により、原告を腕で振り払うか押すかの有形力を行使したため、原告は顔を下向きにして前に突っ込むような状態で階段から数段落ちた。

(二) 仮に被告による直接の有形力の行使がなかったとしても、被告は、原告に対して、原告が安全にAに戻ることができるような客観的状態におく注意義務があり、このような注意義務に違反した過失がある。

すなわち、原告には被告を射精させなければならない義務など全くないにもかかわらず、原告がAに戻れないように原告の腕をつかむなどして原告を離さず、強要ともいえるほどの被告の懇請により、原告はやむを得ず被告を射精させる行為を行うこととなったが、このような状況においては、被告は原告に対して、原告が安全にAに戻れるような客観的状況におく注意義務があったというべきであり、にもかかわらず、本件事故現場のように急いで下りようとすれば階段から転落する可能性が相当程度ある場所において、射精のための行為をさせることを決め、かつ、射精のためにかなりの時間を要したことにより、急いで帰ろうとした原告が転落するに至ったものであり、被告には、右注意義務違反が認められる。

(被告の主張)

(一) 原告が被告に対して猥褻な行為を行った場所は、階段を上り切った場所ではなく、さらにその先に通じている通路の奥の方である。原告が主張する場所は、表の通りから七段の階段を登れば一望できる場所であり、そのような人が来れば発見されてしまうような場所で、本件のような行為を行うなどというのは不自然である。

むしろ、原告が被告に対し猥褻な行為を始めてからしばらくして、被告が目を閉じて瞑想しているときに、突然、原告が被告の前からいなくなってしまったのである。原告は、被告に分からないように息を殺して密かにその場から立ち去ろうと急いで階段に向かったが、足下が暗くてよく見えなかったこと等から足を踏み外し、そのままつま先を支点にして、前方に回転するように真っ直ぐに頭から墜落したと思われる。

(二) 本件雑居ビル内へは、原告が被告を連れ込んだのであり、さらに自らすすんで本件のような猥褻行為を始めたのであるから、被告は、原告に対し、原告が安全にAに戻れるような客観的状態におく注意義務などない。

2  原告の損害額

(原告の主張)

(一) 治療費、診断書代、通院交通費 一〇万二六九〇円

原告の治療のために、原告が直接負担した治療費(甲第二号証の一ないし四)小計四三四〇円のほか、被告が一旦支払った治療費八万二四一〇円、合計八万六七五〇円を要し、診断書代として六八三〇円(甲第三号証)を要し、通院交通費として少なくとも九一一〇円を要し、これらの合計は少なくとも一〇万二六九〇円を下らない。

(二) 通院慰謝料 一一三万円

原告は、本件事故当日である平成九年五月一六日から同年一二月一九日まで通院しており、通院期間は七か月を越えているので、通院に伴う慰謝料は少なくとも一一三万円を下らない。

(三) 休業損害

四〇万六三三五円

本件事故当時原告は、四八歳であったが、平成八年の賃金センサスにおける男子労働者四五歳から四九歳の年収額は、七〇六万二五〇〇円であるところ、原告は、二一日間就業できなかったので、右年収額に二一を乗じ、さらに三六五で除した四〇万六三三五円が休業損害として相当である。

(四) 逸失利益

三〇五三万九三二三円

本件事故により原告に生じた前額部挫創痕は、長さが七センチメートルに及んでおり、人目に付く程度に至っていることは明らかであるので、「外貌に著しい醜状を残すもの」に該当する。

また、原告は、戸籍上は男性であっても、睾丸を摘出し、豊胸手術をしている等の女性と同様の身体的特徴を有していることに加え、女性同様に容姿が評価の中心とされる男性相手の接客業に従事して生計を立てていたのであり、女性と見間違えるくらいの容姿を傷つけられたのであるから、外貌の著しい醜状については、原告を女性と同視すべきである。

したがって、後遺症傷害は、後遺障害別等級表の第七級一二に該当する。

そこで、平成八年の賃金センサスにおける男子労働者四五歳から四九歳の年収額である七〇六万二五〇〇円に第七級の労働能力喪失率である五六パーセントを乗じ、さらに少なくともあと一〇年間は同種の業務で生計を立てていくと思われるので、一〇年間のライプニッツ係数7.7217を乗じた額である三〇五三万九三二三円が逸失利益となる。

(五) 後遺症慰謝料 九三〇万円

後遺症慰謝料についても、原告は、内面的、心理的、精神的にも男性でなく、女性として生活しているのであるから、女性の場合と同様の措置が必要であり、同表七級一二に該当する。

よって、後遺症慰謝料は九三〇万円となる。

(六) 弁護士費用

一一八万七一一六円

(七) 以上合計四二六六万五四六四円の内金三〇〇万円を請求する。

(被告の主張)

原告は、後遺症害の等級認定及び労働能力の喪失について、原告を女性として算定しているが、逸失利益の算定については男性として算定しており、前後矛盾する。

3  過失相殺

(被告の主張)

(一) 被告は、本件事故現場へは、原告に付いて行っただけであり、猥褻行為の場所は、原告の選択によるものである。

(二) 原告は、被告に分からないように息を殺して密かにその場から立ち去ろうと急いで階段に向かったが、足下が暗くてよく見えなかったこと等から足を踏み外し、そのままつま先を支点にして、前方に回転するように真っ直ぐに頭から墜落したと思われるのであり、本件事故は原告の挙動による過失に基づいて発生したものである。

(三) 以上からすれば、本件事故の発生には原告の重大な過失があり、少なくとも大幅な過失相殺がされるべきである。

(原告の主張)

(一) 本件事故現場は、よほど急いで下りようとしない限り転落する可能性のないところであり、特別危険な場所ではない。

(二) 原告が転落したのは、あくまで原告が階段を下りようとした瞬間の被告の有形力の行使のためであり、原告が急いで足を踏み外したことが転落の原因ではない。

(三) 仮に、原告に何らかの過失があったとしても、前記事情に照らせば、その割合は僅少というべきである。

4  原告による不当訴訟の成否

(被告の主張)

原告は、被告に不法行為が成立する余地がなく、原告に何らの実体上の権利がないことを知りながら、あえて損害賠償金名目に金員を騙取することを目的として、本訴事件を提起した。仮に、原告が実体上の権利がないことについて故意がなかったとしても、原告は、本訴の請求原因事実について事情聴取をした警察署に当時の事情聴取内容を問い合わせ、自らの記憶をたどるなどすれば、容易に事実関係を知り得て、このような不当訴訟の提起を避けることができたのに、そのような確認をしなかったのであるから、原告は、不当訴訟である本訴事件を提起するについて過失がある。

(原告の主張)

争点1についての原告の主張のとおり、被告には本件事故の発生について故意又は過失があり、原告が被告に対して損害賠償請求権を有していることは明白で、本訴事件が不当訴訟とされる謂れはない。

5  本訴事件の提起が不当訴訟であった場合の被告の損害

第三  争点に対する判断

一  争点1について

1  証拠(甲第六号証、第一〇、第一一号証、第一三号証、乙第八号証、第一一号証、原告本人尋問の結果、被告本人尋問の結果(第一回、第二回)。ただし、乙第八号証、第一一号証、被告本人尋問の結果(第一回、第二回)中後記採用しない部分を除く。)と前記第二の二の認定事実を総合すれば、以下の事実が認められ、乙第八号証、第一一号証、被告本人尋問の結果(第一回、第二回)中この認定と反する部分は採用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 原告は、本件事故当日である平成九年五月一六日、いったんは被告からのホテルへの誘いを断ったものの、被告から、Aの店を出た後に再度ホテルに誘われ、腕をつかまれるなどされて逃れられず、早くAに戻らなければならなかったことから、やむを得ず、被告を人影のない場所で射精させることにより被告から解放されるために、被告を本件ビル内へと誘った。

(二) 原告と被告が猥褻な行為を始めた場所は、本件ビル内のコンクリート製階段を七段上ったところを右直角に曲がり、さらに五段階段を上りきった最上段のコンクリート製の踊り場であった。原告と被告とは、向かい合い、被告が両腕を原告の両肩に回し強く密着して抱き合った状態で、原告が右手で被告の陰茎に対し刺激を加える猥褻行為を始めた。猥褻行為を始めてから一〇分から一五分ほど経過したが、被告はかなり酩酊していたことからなかなか射精しなかった。被告からもっと唾液を付けてほしいとの求めがあったため、原告は、それに従ってなおも猥褻行為を続けたが、射精に至らなかった。

なお、原告は、本件事故当日、Aでの勤務中はもっぱらウーロン茶を飲んでおり、Aでの勤務の前後を通じて、飲酒はしていなかった。

(三) 原告は、早くAに戻りたいと考えていたのに、いつまでも被告が射精しなかったことから、もう戻らないと店も心配しているので帰らせて下さいとだけつぶやいて、被告の陰茎から手を離し、身体の向きを階段方向に変えようとしたところ、被告は、酔余の上、専ら射精することにばかり意識を集中していたため、急な原告の動きに対応できず、思わず左腕を離すとともに、思わず知らずのうちに故意によらないで、原告の上半身に対し自分の上半身、殊に右腕付近を強く押し付けて振り払うような動きの有形力を加えた。

原告は、その力を受けた結果、階段下まで飛ばされて落下し、頭部前額部をコンクリート製階段に強く打ち付け、失神した。

(四) 被告は、原告から猥褻行為をされている間、目を閉じていたところ、いつの間にか強く抱き合っていた原告がいなくなり腕が軽くなったのに気付いて目を開けた。被告は、原告が視野から消えたことを感じ、落胆したが、自ら原告を探すことをしないまま、四、五分間にわたり自分の手で陰茎をしごいて自慰を試みたにもかかわらず、射精に至らなかった。そこで、あきらめて帰ろうとして、被告は、初めて階段下に倒れている原告を発見し、公衆電話で救急車を呼んだ。

(五) 被告は、救急車の中で、原告に対し、できるだけの弁償はしたいが、勤務先の社長は堅い人だから、この事件が知れたら解雇され、結局原告に何もしてあげられなくなるなどと話した。

(六) 被告は、平成九年五月一六日、同月一九日、同月二四日に治療のために病院に同行し、治療費として合計八万二四一〇円を支出しただけでなく、原告に対し、交通費として同月一六日に五五〇〇円、同月一九日に三六一〇円を、生活補助費として同月一六日に一万円、同月一九日に三万円を支払った。

(七) 被告は、原告が当座の生活費にも困窮しかねないことを慮り、平成九年五月末、原告に多少なりとも送金をしようとして、銀行の自動支払機を使って、原告の指定した口座番号を呼び出したところ、口座名義人として甲野太郎という男の名が表示された。被告は、それまで、多少の疑問はあったものの、原告が男性であるとは確定的に認識していなかったことから、原告に騙されたという思いを抱くようになり、送金を取り止め、以降は病院に同行するのも止めた。

以上の事実を総合すると、被告は、本件ビル内の階段最上段の踊り場において、抱き合って原告から猥褻行為を受けていたところ、相当程度の酩酊の上、性的行為に意識を集中していたため、原告が帰らせて欲しいなどとつぶやいて急に身体を動かしたのに対応できず、故意によらず、原告の上半身に自分の上半身殊に右腕付近を強く押し付けて振り払うような動きの有形力を加えたことにより、原告を階段下に転落させて頭部をコンクリート製階段に打ち付けさせて負傷させたと認定することができる。

2  もっとも、被告は、乙第一一号証、第二回本人尋問において、原告がいなくなった後、被告は両手で手すりに手をおいてしばらく一服していたことを覚えていること、猥褻行為後原告が倒れているのを見つけるまで小股で五、六歩程度歩いたこと、被告は、本件事故の際に原告が転倒するような何らの物音をも聞いていないことなどから、猥褻行為をした場所は、階段を登りきった踊り場ではなく、そのさらに奥の柱の裏側であり、被告は原告に対し、何らの有形力の行使をも加えていないと供述する。

しかし、乙第一一号証、被告本人尋問の結果(第一回、第二回)と前記認定事実によれば、被告は本件事故当時までに、相当量の飲酒をしており、後日被告代理人とともに再度事故現場に行くまで、そこに柱及び手すりがあったことを覚えておらず、さらに、被告本人尋問(第一回)では、被告が原告の倒れているのを見つけた場所から原告が倒れていた場所までは、およそ一メートル程度であったと供述していたのに、被告本人尋問の結果(第二回)では、その間は小股で五、六歩程度歩く距離であったと供述を変遷させていることが明らかにされており、基本的に被告の本件事故に関する記憶は曖昧というべきであり、また、前記1の認定事実と対比すると、前記1(三)において認定した原告の落下の事実と前記1(四)において認定した被告が目を開けて原告が視野から消えたことに気付いた事実との間には若干なりとも時間が経過していたと推認することができ、事故当時の被告の酩酊の程度はかなり深かったと認められ、被告が原告の転倒する際の物音に全く気付かなかったことも深酔いのせいであると説明することができることをも考えると、右の被告の供述を採用することは無理というべきである。

3  また、前記1(六)のとおり、被告は、被告が本件事故に関し原告のため経済的出捐をしていることについて原告に対する同情心からであると主張しており、乙第八ないし第一一号証、被告本人尋問の結果(第一回、第二回)にはその主張に沿った供述が記載されている。

しかしながら、被告は、治療費を本件事故当日の平成九年五月一六日に支払っただけでなく、その後同月一九日、同月二四日にも続けて支払っていること、被告による支払合計金額は、他の費目をも通じて一三万一五二〇円にも達すること、その中には被告の治療費関係費と別に生活補助費として支払われた四万円も含まれていることを併せると、単なる同情心から支払ったとは認めにくく、被告は、本件事故に関し、自分の過失を自認した結果これらの支払をしたと推認するほかはなく、右の各供述に信を措くことはできず、右の被告の主張は採用の限りでない。

4  なお、本所警察署に対する調査嘱託の結果(平成一〇年六月二九日付け調査嘱託に対する回答書、平成九年五月一六日答申書)、原告本人尋問の結果によれば、原告は、本件事故について調べを受けた本所警察署内において、警察官に対し、原告から手をつかまれたので、それを振り払った際に勢いがつき階段から落ちた、と供述したことが認められる。

しかし、本所警察署に対する調査嘱託の結果、本所消防署に対する調査嘱託の結果、原告本人尋問の結果、被告本人尋問の結果(第二回)によれば、原告は、救急隊員に対し、店の客に店外のビル階段で背中を押されたため転倒したと申し述べたこと、原告は、救急車で連れてこられた順天堂大学医学部附属順天堂医院においても、警察官に対し、被告に押されて怪我をしたと申し立てていたこと、原告は、本所警察署内において、警察官から、被告はできるだけのことはすると言っているから示談にしてはどうかと話されたので、被告が示談に応じることを期待して右の供述をしたにすぎないことが認められるから、右の供述により前記1末尾記載の認定を覆すには足りない。

5  ところで、合意の上で自己の性欲を満たすために他人に性的な行為をさせている場合であっても、相手方の生命身体を害することのないように相手方の安全に配慮すべき注意義務があることは条理上当然のことであり、コンクリート製階段の踊り場で原告と抱き合っていた被告としては、わざとではないにせよ、原告に転倒させるほどの有形力を加えれば、原告の身体に危害を与えることは十分予見できたのであるから、いかに性的行為に熱中していたとはいえ、相手方の身体に危険を与えかねないような有形力の行使を避けるべき義務があったというべきである。

ところが、被告は、この注意義務を怠り、漫然と性的行為に意識を集中し、その結果、故意によらないとはいえ、原告に有形力を加え、本件事故を引き起こしたのであるから、被告には本件事故の発生につき過失があったといわなければならない。

二  争点2について(ただし、弁護士費用を除く。)

1  治療費、診断書代、交通費

争いのない事実及び証拠(甲第一号証の一ないし四、第二号証の一ないし四、第三号証、第六号証)と前記第二の二の事実によれば、原告は、本件事故により、前額部挫創、右手首打撲等の負傷を受け、平成九年五月一九日から同年一二月一九日まで順天堂大学医学部附属順天堂病院に通院して治療を受けたこと、原告の治療のために、原告が直接負担した治療費小計四三四〇円のほか、被告が一旦支払った治療費八万二四一〇円、合計八万六七五〇円を要し、診断書代として六八三〇円を必要とし、通院交通費として少なくとも九一一〇円を要し、これらの合計は少なくとも一〇万二六九〇円を下らないことが認められる。

2  休業損害

証拠(甲第五、第六号証、乙第五号証、原告本人尋問の結果)と弁論の全趣旨によれば、原告は、睾丸を摘出し、豊胸手術をした、いわゆるニューハーフであり、女性然として日常生活を過ごしており、仕事及び通勤時間のみならず私的な時間も全て女性用の化粧品、装飾品、服装を使用していること、原告は、本件事故当時、Aに勤務して、日給一万五〇〇〇円の収入を得ていたこと、原告は、本件契約事故のため実日数で一八日間Aの仕事を休業したことが認められる。

したがって、本件事故の治療のために、原告は、一日一万五〇〇〇円の割合による一八日分合計二七万円の休業損害を蒙ったと認められる。

3  逸失利益

証拠(甲第一号証の一ないし四、第六号証、第八号証、第九号証の一、二)と弁論の全趣旨によれば、原告には、平成一〇年一月ころまでに本件事故による受傷の後遺症として、前額部に七センチメートルの挫創痕が固定したこと、右挫創痕は、皮膚の隆起を伴うようなものではなく、原告が通常行う化粧によって、ほとんど目立たなくなることが認められるから、右の挫創痕を評して「外貌に著しい醜状を残すもの」とまでいうことは難しく、「外貌に醜状を残すもの」に当たると認めるのが相当である。

また、前記2において認定した事実によれば、原告の生活ぶりは、心身ともに女性と同様であるということができるから、原告の後遺症の等級認定においては、「女子の外貌に醜状を残すもの」とされる後遺症等級第一二級の一四に準じて扱うのが相当である。

前記2の認定事実によれば、原告は、本件事故前、一か月平均で二一日間Aに勤務し、一日当たり一万五〇〇〇円の収入を得ていたことが明らかである。そして、本件に現れた原告の年齢、職業、後遺症の内容、程度、その他諸般の事情を総合すれば、原告は、本件事故がなければ、後遺症固定当時、少なくとも一週間当たり土曜日、日曜日を除いた五日間の割合、すなわち一か月三〇日として換算して二一(三〇を七で除した値に五を乗じた21.42の小数点以下を四捨五入した値)日間程度はAで勤務することができたとみることができ、また、原告には後遺症固定時から五年間右の後遺症による労働能力喪失の影響が残ると認めるのが相当である。

したがって、原告の後遺症逸失利益の額は、一万五〇〇〇円に二一を乗じた三一万五〇〇〇円の月収額を一二倍した三七八万円の年収額(なお、当裁判所に顕著な賃金センサス平成八年第一巻第一表における女子労働者四五歳から四九歳の年収額三六一万二一〇〇円と対比すれば、右の年収額の認定は不相当でないというべきである。)に、第一二級の労働能力喪失率である一四パーセントを乗じ、さらに五年間のライプニッツ係数4.3294を乗じた額である二二九万一一一八円と認定するのが相当である。

4  通院慰謝料

証拠(甲第一号証の一ないし四、第二号証、第六号証)によれば、原告の通院期間は七か月間であるが、実際に治療に要した日数は九日間であることが認められるので、通院慰謝料の額としては、二五万円と認めるのが相当である。

5  後遺症慰謝料

前記のとおり、原告の前額部挫創痕は、後遺障害等級認定一二級一四と認められるので、原告の後遺症慰謝料は、二七〇万円と認めるのが相当である。

6  小計

以上の損害額を合計すると、五六一万三八〇八円となる。

三  争点3及び弁護士費用について

1  前記認定事実及び証拠(甲第六号証、第一〇、第一一号証、第一三号証、乙第一一号証、第一三号証、原告本人尋問の結果、被告本人尋問の結果(第一回、第二回)、ただし、乙第一一号証、被告本人尋問の結果(第一回、第二回)中前記のとおり採用しない部分を除く。)によれば、本件事故現場は、本件ビル内の階段を上りきった最上段のコンクリート製踊り場であること、本件階段も、コンクリート製で一段がおよそ二〇センチメートル、中間の踊り場から最上段までは五段あるのでおよそ一メートルあることが認められ、原告が、このような場所で被告からわずかであれ有形力の行使を受ければ、階段から転落して負傷するおそれのある危険な場所であることが認定できる。

2  また、本件事故現場である階段を上りきった最上段の踊り場は、原告が自ら選択した場所であり、猥褻な行為を行う場所の選択についての主導権は原告にあり、被告は原告の後を単に付いて行っただけであることが認められる。

3  以上の事実と前記認定事実を総合すると、原告には、被告は、相当深く酒に酔っていたことから、原告側で突発的な動きがあれば身体の平衡を崩しても不思議でないことが予見できたこと、階段最上段の踊り場はわずかな有形力の行使であっても階段から転落するおそれがある危険な場所であることを十分に予測し得たこと、にもかかわらず、原告は、単に早く原告から解放されたいことだけを考え、猥褻な行為を行う場所を選択するについて、階段から転落しないような安全な場所を選択することを怠り、その上、深酔いしている被告にわずかに帰らせて欲しいとつぶやいただけで急に身体を動かしたという挙動における過失が認められる。以上に認定した諸般の事情と対比すると、その過失割合は原告が七割、被告が三割と認めるのが相当である。

そうすると、原告が被告に対して請求しうる金額は、五六一万三八〇八円に0.3を乗じた一六八万四一四二円となるところ、前記認定のとおり、原告は、被告から一三万一五二〇円の支払を受けた(ただし、被告が支払った治療費八万二四一〇円のうち七割の五万七六八七円は健康保険の負担により被告に返金された。)から、この金額を控除する(なお、そのうち五万七六八七円は右のとおり健康保険負担として損益相殺として控除され、その余は被告による弁済として控除される。)と被告が原告に賠償すべき損害金額は一五五万二六二二円となる。

4  弁護士費用

本件事案の内容、程度その他の事情を総合して考慮すると、本件事故と因果関係のある弁護士費用相当の損害額は、一五万円と認めるのが相当である。

四  争点4について

以上の検討の結果によれば、原告の本訴請求は、一部とはいえ認容されるべきものであり、この訴訟提起を評して不当訴訟の提起ということはできないから、被告の反訴請求は理由がない。

五  以上によれば、原告の本訴請求は、一七〇万二六二二円と右金員に対する不法行為の日である平成九年五月一六日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるが、その余は失当として棄却すべきである。

また、被告の反訴請求は理由がなく、棄却を免れない。

(裁判官成田喜達)

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